Masukその言葉に、リリアーナは毛布の上で指先を強く組んだ。 狙われやすい。 弱点。 標的。 そういう言葉で、自分が前世にどんな位置へ置かれていたかを、今さら明確に聞かされる。「婚約の段階で、既に君の実家は侯爵家の名をどこまで利用できるかを探っていた」 「……」 「母も、君を気に入ってはいなかった」 「知ってるわ」 「知っていた」 「だから?」 「私は、表立って君を庇えば庇うほど、君へ標的が集中すると判断した」 その一言は、ずっと胸のどこかで予感していた種類の答えだった。 守るため。 見せないため。 弱点にしないため。 きっと、そういう理屈はあったのだろう。 そして、それは完全な嘘ではない。侯爵家ほどの家なら、表に出る感情ひとつが交渉材料になる。妻への執着が見えれば、そこへ刃が向く。前世のリリアーナにだって、それくらいの理屈は分かる。 分かる。 でも。「だから、何も言わなかったの」 「……ああ」 「熱を出しても」 「……」 「夜会のあとも」 「……」 「お義母様が私を削る時も」 「……」 「全部、“標的を集中させないため”?」 その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。 彼の沈黙は、今はもう単なる逃避には見えない。 けれど、沈黙が人を傷つけることを、二人とも知っている。「最初は」 ようやく落ちた声は低かった。「最初は、本気でそう思っていた」 「最初は?」 「公の場で距離を取る。必要以上に側へ置かない。妻としての権限は与えるが、特別な感情は見せない。それが一番安全だと」 「……」 「実際、最初のうちはそれで何人かの目は逸れた」 「……」 「だから、正しい判断だと思った」 正しい判断。 その言葉の冷たさに、リリアーナはふっと笑いそうになった。 もちろん愉快だからではない。 前世の自分を形容するのに、なんて乾いた言葉を使うのだろうと思ったからだ。「正しい判断」 「……」 「それで私は、一人だったわ」 セドリックの目が、わずかに揺れる。「知っている」 「知っていた、でしょう」 リリアーナは言い直した。「当時から」 「……ああ」 「じゃあ、いつから気づいていたの」 「何に」 「その“正しい判断”が、私を孤独にしていたことに」 問いは静かだった
夜が明けたあとも、リリアーナの胸の奥には、前夜の涙の熱がそのまま残っていた。 泣いたあとの朝は、いつも少し変だ。まぶたは重く、頬の皮膚は薄く張りつき、喉の奥にはまだ泣き声の擦れが残っている。鏡の中の自分は、腫れをどうにか抑えたつもりでも、よく見れば一目で分かる顔をしていた。誰かに「昨夜は眠れましたか」と尋ねられたら、その瞬間に崩れそうな顔。 けれど、それでも朝は来る。 侯爵邸の朝は、前世と同じように静かだった。 磨かれた廊下。 遠くの食堂からほとんど音を立てずに運ばれる銀器。 暖炉に足される薪のかすかな音。 窓の外で、枝先を揺らす春前の風。 美しく整っているのに、どこか人の体温が薄い。 前世のリリアーナは、その静けさが怖かった。 今のリリアーナは、その静けさの意味を少し知っている。 整えられたものは、時に守りでもあり、時に人を孤独にする檻でもある。 朝一番に運ばれてきたのは、薄いスープと、柔らかく煮た果物、それに蜂蜜を落とした薬湯だった。エマは何も聞かず、ただ主人の手元へそれらを静かに整える。昨夜、どれほど泣いたかも、何を聞いたかも、踏み込まずにいる。その慎重さがありがたく、同時に、余計に涙を誘いそうだった。「少しだけでも」 エマがそう言って、スープの匙を手元へ寄せる。 リリアーナは頷いた。 昨日よりは、食べなければいけない気がした。 体を起こしておかなければ、きっと今日の話を最後まで聞けない。 話。 そうだ。まだ終わっていない。 前夜、セドリックは「最初から愛していた」と告げた。 リリアーナは泣いた。怒った。 知っていたなら生き方が変わっていた、と嗚咽した。 でも、それで全部が尽くされたわけではない。 どうして言わなかったのか。 どうしてあんな十年になったのか。 そこにはまだ、彼が口にしきっていない部分があると分かっていた。 愛していた。 でも黙っていた。 その間に何があったのか。 そこを聞かなければ、きっと前へ進めない。 スープをひと口飲み込む。 温度が喉を通る。 玉ねぎの甘みと少しの塩気。 ちゃんと味が分かる。 それだけで、少しだけ現実へ戻ってこられる気がした。「お嬢様」 エマが静かに言う。「侯爵様より
ゆっくりと、噛みしめるように言う。 まるで、自分でも今ようやく本当の意味で理解したことを、言葉に乗せているみたいに。 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で反芻した。 正しい判断。 正しい愛し方。 前世の彼は、たぶん前者しか見ていなかったのだろう。 家を守る。 敵を増やさない。 感情を見せない。 妻を表向きの弱点にしない。 その全部は、侯爵としては理にかなっていたのかもしれない。 でも、妻である自分は人間だった。 体面では生きられない。 必要な敬意だけで満たされるわけでもない。 熱を出した朝に欲しいのは薬だけではなく、そこにいてくれる気配だった。 夜会のあとに欲しいのは、完璧な護衛ではなく、「大丈夫か」の一言だった。 その違いを、ようやく彼は理解したのだ。 遅すぎる。 どうしようもなく。 でも、理解したこと自体は嘘ではないと分かる。「今さらね」 ぽつりと呟く。 その一言の中に、責める気持ちも、諦めも、そして少しだけ切なさも混じる。「ああ」 「今さら、そんなこと言われても」 「分かっている」 「私は前の私を、もう取り戻せない」 「……」 「あの頃の私は、あなたが庇ってくれているなんて知らなかった」 「……」 「敵がいることも、家の中が腐っていることも」 「……」 「ただ、愛されていないと思っていた」 「……」 「それが、私の現実だったの」 セドリックの喉が小さく動く。 それが苦しいのだろう。 でも、苦しいだけでは足りない。 ちゃんと見てほしい。 自分がどんな現実を生きていたかを。「私は、あなたの“正しい判断”の外側で、ずっと一人だった」 「……ああ」 「それを、あなたは守るためだと思っていた」 「……」 「ならやっぱり、ひどい人よ」 そう言うと、今度はセドリックがほんのわずかに口元を歪めた。笑ったわけではない。苦く、自嘲するような、ほとんど笑いにすらならない動きだった。「否定できない」 「否定してほしいわけじゃないわ」 「……」 「ただ、分かってほしいだけ」 「何を」 「理屈が正しくても」 「……」 「私は救われなかったってことを」 その一言に、彼は深く頷いた。 前世なら、その頷きも見えなかっただろう。 見ていても
その言葉に、リリアーナは毛布の上で指先を強く組んだ。 狙われやすい。 弱点。 標的。 そういう言葉で、自分が前世にどんな位置へ置かれていたかを、今さら明確に聞かされる。「婚約の段階で、既に君の実家は侯爵家の名をどこまで利用できるかを探っていた」 「……」 「母も、君を気に入ってはいなかった」 「知ってるわ」 「知っていた」 「だから?」 「私は、表立って君を庇えば庇うほど、君へ標的が集中すると判断した」 その一言は、ずっと胸のどこかで予感していた種類の答えだった。 守るため。 見せないため。 弱点にしないため。 きっと、そういう理屈はあったのだろう。 そして、それは完全な嘘ではない。侯爵家ほどの家なら、表に出る感情ひとつが交渉材料になる。妻への執着が見えれば、そこへ刃が向く。前世のリリアーナにだって、それくらいの理屈は分かる。 分かる。 でも。「だから、何も言わなかったの」 「……ああ」 「熱を出しても」 「……」 「夜会のあとも」 「……」 「お義母様が私を削る時も」 「……」 「全部、“標的を集中させないため”?」 その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。 彼の沈黙は、今はもう単なる逃避には見えない。 けれど、沈黙が人を傷つけることを、二人とも知っている。「最初は」 ようやく落ちた声は低かった。「最初は、本気でそう思っていた」 「最初は?」 「公の場で距離を取る。必要以上に側へ置かない。妻としての権限は与えるが、特別な感情は見せない。それが一番安全だと」 「……」 「実際、最初のうちはそれで何人かの目は逸れた」 「……」 「だから、正しい判断だと思った」 正しい判断。 その言葉の冷たさに、リリアーナはふっと笑いそうになった。 もちろん愉快だからではない。 前世の自分を形容するのに、なんて乾いた言葉を使うのだろうと思ったからだ。「正しい判断」 「……」 「それで私は、一人だったわ」 セドリックの目が、わずかに揺れる。「知っている」 「知っていた、でしょう」 リリアーナは言い直した。「当時から」 「……ああ」 「じゃあ、いつから気づいていたの」 「何に」 「その“正しい判断”が、私を孤独にしていたことに」 問いは静かだった
夜が明けたあとも、リリアーナの胸の奥には、前夜の涙の熱がそのまま残っていた。 泣いたあとの朝は、いつも少し変だ。まぶたは重く、頬の皮膚は薄く張りつき、喉の奥にはまだ泣き声の擦れが残っている。鏡の中の自分は、腫れをどうにか抑えたつもりでも、よく見れば一目で分かる顔をしていた。誰かに「昨夜は眠れましたか」と尋ねられたら、その瞬間に崩れそうな顔。 けれど、それでも朝は来る。 侯爵邸の朝は、前世と同じように静かだった。 磨かれた廊下。 遠くの食堂からほとんど音を立てずに運ばれる銀器。 暖炉に足される薪のかすかな音。 窓の外で、枝先を揺らす春前の風。 美しく整っているのに、どこか人の体温が薄い。 前世のリリアーナは、その静けさが怖かった。 今のリリアーナは、その静けさの意味を少し知っている。 整えられたものは、時に守りでもあり、時に人を孤独にする檻でもある。 朝一番に運ばれてきたのは、薄いスープと、柔らかく煮た果物、それに蜂蜜を落とした薬湯だった。エマは何も聞かず、ただ主人の手元へそれらを静かに整える。昨夜、どれほど泣いたかも、何を聞いたかも、踏み込まずにいる。その慎重さがありがたく、同時に、余計に涙を誘いそうだった。「少しだけでも」 エマがそう言って、スープの匙を手元へ寄せる。 リリアーナは頷いた。 昨日よりは、食べなければいけない気がした。 体を起こしておかなければ、きっと今日の話を最後まで聞けない。 話。 そうだ。まだ終わっていない。 前夜、セドリックは「最初から愛していた」と告げた。 リリアーナは泣いた。怒った。 知っていたなら生き方が変わっていた、と嗚咽した。 でも、それで全部が尽くされたわけではない。 どうして言わなかったのか。 どうしてあんな十年になったのか。 そこにはまだ、彼が口にしきっていない部分があると分かっていた。 愛していた。 でも黙っていた。 その間に何があったのか。 そこを聞かなければ、きっと前へ進めない。 スープをひと口飲み込む。 温度が喉を通る。 玉ねぎの甘みと少しの塩気。 ちゃんと味が分かる。 それだけで、少しだけ現実へ戻ってこられる気がした。「お嬢様」 エマが静かに言う。「侯爵様より
それは、ずっと胸の底にあった言葉だったのだろう。 口にした瞬間、自分でもそれが本当の核心なのだと分かった。「知っていたら」 「……」 「私は、あんなふうに……っ」 「……」 「ただ黙って削られていくだけじゃ、なかった……!」 嗚咽でうまく繋がらない。 けれど、言葉は止まらなかった。「知っていたら、夜会のあとで、何も言わずに一人で寝室へ戻らなかった……!」 「……」 「熱を出した朝に、来てくれないことを“当然”だと思わなかった……!」 「……」 「食べられない日も、ただ笑ってごまかしたりしなかった……!」 「……」 「お義母様に削られても、実家に押されても、私……っ」 「……」 「私、もう少し違う生き方ができた……!」 最後の一言は、もうほとんど泣き声だった。 知っていたら、生き方が変わっていた。 それは、単に気持ちの話ではない。 自尊心の持ち方。 助けの求め方。 耐え方。 怒り方。 絶望の深さ。 全部が違っていたかもしれない。 愛されていないと思いながら生きるのと、言葉にされなくても愛はあったのだと知って生きるのでは、同じ十年でも重さが違う。 それなら、あの夜の立ち位置も、あの選び方も、あの死に方ですら、変わっていたかもしれない。 それを今さら知ることの、どれほど残酷なことか。 セドリックは一歩も動かなかった。 近づいてこない。 触れようともしない。 慰めも差し込まない。 前なら、その距離にまた怒ったかもしれない。 けれど今は、それがせめてもの礼儀だと分かった。 今ここで触れられたら、きっと本当に壊れてしまう。「……ああ」 やがて、ひどく低い声が落ちた。「そうだ」 「……」 「君の生き方を変えてしまうはずの言葉だった」 「……」 「それを、私は与えなかった」 「……」 「そのことを、死んでから知った」 その“死んでから”に、また胸が痛む。 あなたは私が死んでから知った。 私は死ぬまで知らなかった。 その差が、どうしようもなく悲しい。「だから許さない」 涙に濡れたまま、リリアーナは言った。「……」 「愛していたなんて」 「……」 「そんなこと、今さら言われて、簡単に優しくなれるわけない」 「分かっている」 「私の十年は、あな
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







